先日、だいぶ遅ればせながらアル・ゴアの不都合な真実を観ました。 私自身、大学生の頃は環境問題に興味がありましてゼミの題材も環境だった。しかし、意外なことに教授は環境に関する授業を2年半の間、一度もやらなかった。卒業論文も敢えて環境に関係ない分野を書くように指示された。猛烈に研究したいという熱意があったわけではないので、当時はなぜ環境の勉強をしないのかと思う程度で別の題材の授業を楽しんでいたが、今になってみると少しだけ環境の授業をやらなかった理由がわかる気がする。 まず第一に環境問題はあくまでも予測の範疇を超えないということだ。 第二に大きな組織の研究者でもならない限り、データを借りることしかできないということである。 与えられたデータは正しい正しくないの検証はほぼ不可能である。データの採取方法を開示されたとしてもそれを全面的に信用することはできない。また、そこから未来を予測しても第一に挙げたように予測の範疇を超えることはないのだ。この二つの不確実性は文系の学生にはあまりにも打破しがたく、そういった理由で授業は環境から遠ざかっていたのだと思う。 しかし、実際に環境問題を取り上げるときこのような懐疑論ばかりでは議論は進まないし、いざとなった時に対処ができなくなってしまう。常に最低にシナリオを想定しながら備えることは悪いことではない。そういった意味では、鑑賞した「不都合な真実」は評価に値する。多くの人に環境問題の重大さを認識することに成功しただろう。 しかし、難しい題材を大衆映画のように単純化してしまうと誤解を招いてしまうことが多い。 テレビをみてても思うのだが、環境保護の敵は利益しか興味のないと思われている大企業や便利な世の中である。これはある意味正しい。明日から原始時代のように車を捨て、エアコンを捨て、工場を停止して、農業に徹すれば環境破壊は食い止められるだろう。これで、環境保護主義の理想とする社会が出来上がる。そして、次の日からは食料を争う戦争が始まるだろう。それでも多くの人は今の生活を手放すのだろうか。 どんなことでもメリット・デメリットが存在する。自動車は毎年、戦争よりも多くの人を殺しているが社会から消える気配はない。それは自動車の便宜と他人の命を比べたときに自動車の便宜が優っているからである。 環境問題も同様である。環境と経済発展を比べたとき経済の方が優勢であるから、企業も国も環境よりの政策をしないのである。 もちろん何も対処しなくていいわけではない。昔に比べると電気自動車や家電のエネルギー効率は格段に上がっている。断熱材により暖房もだいぶ節約出来るようになった。将来的には大気中の二酸化炭素濃度を低くする技術ができるかもしれない。こういった技術の進化はひとえに経済の発展がもたらしたものである。 そうやって、徐々に民間が変化をもたらしていくものを国が無理やり政策とやってしまうと無理が生じてしまう。エネルギー効率の悪い太陽光エネルギーや消費の先食いを促すエコポイントは”環境バブル”を引き起こす可能性さえある。 大事なのは私たち民間人が環境について感情的にならずに、問題一つ一つに対して冷静に判断をくだすことである。石油の一番いらない部分を利用して作っていたポリ袋を廃止して、良質な石油を使って世の中に腐るほど出回っているエコバックもいい例である。環境ビジネスでひと山儲けようとしている人に騙されて良心からエコに取り組んでいる人を見ると目も当てられない。 様々なファクターが渦巻いている環境問題をひとつずつ読みといて個別に対応する力が求められていると感じた。
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