犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)
多くの人がTV等で毎日のように報じられる犯罪に関するニュースを見て、日本は物騒になったと感じているだろう。そう思ってしまっている人はマスコミによる洗脳の被害者である。実際は犯罪による傷害者数死亡者数は減っており、増えたのは犯罪の”認知件数”であるからだ。
昨今厳罰化が激しい飲酒運転も然りである。この現象は、モラルパニックから”鉄の四重奏”への変換である。モラルパニックとは、例えば飲酒運転による過失で死亡事故があった場合マスコミがこぞって他の飲酒運転の事故や検挙も報道して、それらしい専門家をテレビに出して警鐘を鳴らし社、会がパニックに陥ることである。今までも飲酒運転は存在していたが、マスコミの過熱報道によって世間一般に急激に認識が広がって社会不安が起こってしまう。この状態が長く続くと、一時のブームではなくなり恒久的な問題として扱われるようになる。これが”鉄の四重奏”と呼ばれる状況だ。
科学的な根拠や相対的なリスク把握をなしに”鉄の四重奏”に陥ってしまうのは大変危険である。誰もが犯罪に巻き込まれたくないと思うし、もし巻き込まれてしまったら加害者に怒りを覚えるのは当然のことである。場合によっては加害者に対して死刑を望む場合もあるだろう。そういった感情は個人レベルでは仕方がないことだし僕も共感を覚える。ただ、現行の法は相対的な判断基準を持って各々の刑罰を決めている。厳罰化が進むと言うことは刑罰の閾値を下げると言うことである。刑罰の閾値が下がり続けてしまうと、どんな小さな失敗でも”犯罪者”というレッテルを貼られ社会復帰が困難になる社会が出来上がってしまう。被害者感情だけで厳罰化を行うのは合成の誤謬を生んでしまうのだ。近年のマスコミの報道は、以前の加害者の生い立ちや性格を探っていくものから被害者がいかに可哀相かという感情を報道するものにシフトしてきている。そういった現状も厳罰化が進む一つの要因だろう。
僕はもっと犯罪を容認しろと言っているのではない。感情を優先して、きちんとした事実も把握せずに厳罰化を行うことは社会を消極的にしてしまい、最終的には厳罰化を望んだ人たちに影響が及んでしまう危険があると言っているのだ。
少し話が変わるかもしれないが、東海沖大地震が発生してから2週間たって今なお続く社会の”自粛”モードも被災者に対する感情からきている。しかし、本当に被災地や被災者の復興を望むのならば自粛モードを今すぐ取りやめるべきだ。資本主義社会は人やお金が循環することで成り立っている。それをみんなが自粛と称して控えてしまったらどうなるだろうか。一番困るのは多額の復興費を必要としている被災者の人たちなのだ。先日、あるイベント会社が自粛の煽りを受けて倒産してしまったという報道があった。このまま続けば飲食店などで潰れる店がもっと出てくるだろう。誰かを助けるには、自分がまず力を蓄えなければいけない。そのためには自粛をせずより一層経済の循環を促すことに効果がある。まずは東京の経済を立ち直らせて、個人レベル、企業レベル、国家レベルで経済的な力を蓄える必要があるのだ。自粛による経済縮小は、厳罰化に似ている部分がある。感情による行動を優先するのではなく、客観的な事実に基づいてどの方法がもっとも効率的かを考え行動するほうが結果的には望んだ結果になるのだ。